西宮市今津出在家町で不動産売買をお考えの方は、株式会社Fineblue
2021/05/14
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今津出在家町 【名前の由来】
酒造の伝統が今も酒造業者の努力によって受け継がれている今津の街。その先人達の足跡が今津港のほとりに残されています。白砂青松の美しいこの海岸にお酒の積み出しに便利な港を出現させたのは、酒造家の一人、米屋伊兵衛(こめやいへい)でした。寛政五年(1793年)に造られました。今津のシンボルとも言える今津燈台は、海難から船荷を守る為にこの燈台を建てたのも酒造家の長部家―五代目 長兵衛により建設、六代目 文次郎により再建されました。1810年に建設された当初は、油で火を灯し、油紙の障子がはめられていたといいます。この木造の燈台は、今も海上保安庁公認の航路標識として現役で、ヨットやレジャーボートの案内役を務めています。今津の津という文字は、港、船の停泊するところを表しています。今津の歴史とも港は、深く関わっていました。古代、入江になっていた西宮辺りは、大和朝廷の重要な港で難波に近い湊に対して むこうの港=武庫水門(むこみなと)と呼ばれていました。そして武庫水門周辺に港の出入口という意味の津門(つと)という言葉がそのまま地名として使われました。古くからの津が河川の堆積で埋まって平野になってしまった後、新しく出来た津が新しい津(港)=今津、泉の人が開発したと言われている。江戸時代、今津の集落は、中国街道沿いの今津と浜側に生まれた今津浜方の2つの村がありました。その経緯が昔の今津浜方に位置していた出在家という旧字名からも伺えます。出在家は、現在、今津出在家町に引継がれていますが、在家とは、出家した僧侶に対し、出家していない人を指す言葉でした。そして、後には、民家・集落そのものを言う様になった。つまり、新在家、今在家、そして出在家という地名は、昔からの集落を出て、周辺の荒れ地を新しく開発した時、その新集落に付けられた名前です。
まとめ
今津出在家町
在家=民家・集落
⇕
出在家・新在家・今在家=古くからの集落周辺に生まれた新集落