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2021/05/29
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大島町 【名前の由来】
甲武橋を通って南西に伸びる国道171号線沿線、阪急今津線辺りまでが、かつて大市村(おおいちむら、または、おいちむら)と呼ばれていました。国道171号線は、奈良時代、既に重要街道であった山陽道(江戸時代以降「西国街道」)を昭和16年頃から改修したもので旧街道がすぐ北を平行して走っている。丹波経由で日本海や播磨方面にも通じる大市、武庫の港にも間近く、大陸との交流が盛んだった時代、人や物が行き交う交通の要所となって市が盛大に開かれていたのでしょう。大市という村の名は、それに由来したと思われるのですが、記録に残っている大市は、既に市ではなく、土を相手に暮らす村です。大市をはじめ段上、高木、瓦林など多くの田畑を潤して来た水路、百閒樋は、16世紀頃に造られました。仁川をくぐるトンネルをおよそ百閒(180m)におよんで掘りぬいたとされ、百閒樋を通って引き入れた武庫川の水は、幾度も分岐して、各村の田畑へ流れ込んだで行きました。高木村へは、現在の大島町で分岐していました。傍らに阪神淡路大震災まで活躍していた高木村用水取樋が残されています。石には、字三拾六の文字、この地名は、かつてここに条里制が敷かれていた事の名残です。条里制は、班田収授を実施する為、6~7世紀、盛んに行われました。土地を一辺を600mの四角に区切り、更にその中を36に均等割りして、それぞれを一の坪、二の坪と呼んで管理したものです。大市には、この様に古い起源を持つものなど、故郷の失われた姿を伝える生き証人とでも言えそうな小字が多く残っていました。しかし、江戸時代初期、大市村は、領士の都合で上大市と下大市に分けられた事もあって2つの村は複雑に入り組み、明治時代、周辺の村と合わせて甲東村となった、後もその表示は分かりにくいものになっていまいした。甲東村は、上大市、下大市、段ノ上、神呪、門戸、樋ノ口、上ヶ原で構成されていた。一方、大正10年の阪急西宝線開通(現 今津線)をきっかけに村の様子は、大きく変貌、都市の商工業に従事する新住人がどっと流入して来ると共に田畑がどんどん宅地化、こうした事情を背景に昭和27年複雑だった小字の整理が一気に行われ、新しい町名が誕生したのが大島町です。大島町は、下大市の字大島と字辻ノ内を中心に生まれました。大島は、ここで言う島は、武庫川の中州、または、武庫川の氾濫原に出来た小さな砂丘の事、近くには、中島という字もありました。辻ノ内というのは、どんな意味でしょう。辻というのは、築地(ついじ)水害に備えて築かれた頑丈な土塀の事、辻ノ内は、この土塀に囲まれた場所という意味だったと思われます。
まとめ
大島町・・・旧字名より命名
武庫川の中州、あるいは氾濫原に出来た小砂丘の中で、大きい方のもの