西宮市霞町で不動産売却・購入をお考えの方は、株式会社Fineblue
2021/06/12
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霞町 【名前の由来】
西宮市内には、様々な文学作品のモチーフとなり、また、創作の原動力にもなった美しい自然や個性的な街角が点在しています。
その一つが多くの薄田泣菫『太陽は草の香がする』、下村『新聞に入りて』、稲垣足穂『ヒコーキ野郎たち』、谷崎潤一郎『卍(まんじ)』『細雪』、田辺聖子『女の日時計』、村上春樹『村上朝日堂の襲撃』、佐藤愛子『愛子』、野間宏『青年の環』、司馬遼太郎『世に棲む日日』、野坂昭如『火垂るの墓』、遠藤周作『砂の城』、水上勉『名塩川』『桜守』、松本清張『内海の輪』『霧笛の町』、井上靖『闘牛』『あした来る人』、城山三郎『零からの栄光』、瀬戸内寂聴『恋しい』、堀江謙一『太平洋ひとりぼっち』、宮本輝『青が散る』『錦繍』
軍人、芸術家たちに愛された片鉾池、そして夙川沿い界隈です。元々は、手つかずの野原や松林に囲まれ、ため池として利用されるだけだった片鉾池。この池の辿った歩みもまた物語の様です。
池を取り巻く自然の豊かさ・立地の良さを見いだし、明治末、行楽地として世に送り出したのは大阪商人「香野蔵治」と「櫨山慶次郎」です。二人の名字から一字づつとって『香櫨園遊園地』と名付けられました。
都市生活者が憧れる美しい自然と、大人から子供まで楽しめる施設が一体化したレジャーランドとして人気を博しました。
ちょうどその頃から「明治40年 香櫨園遊園地」西宮一帯は「大正初期 苦楽園が高級リゾート地に」「大正7年 甲陽園遊園地」「大正13年から甲子園がスポーツ王国に」「昭和元年 武庫川遊園地」行楽地時代を迎えるのですが、この香櫨園遊園地の成功がその皮きりでした。
しかし、遊園地としての終焉は早々と訪れ、まもなく当時流行し始めていた理想的な郊外住宅地として再生しました。この地を最初に住宅地に変えようとしたのは、神戸のサミスル商会で、大正2年のことです。土地の大部分を買取り、外国人の住宅地を造ろうとしたのですが失敗して売却。これを後に甲陽園開発に乗り出す「本庄京三郎」が一度買取りますが、転売、最終的にこの地を手に入れて宅地経営にあたったのは大神中央土地株式会社(大正6年)でした。大神中央土地株式会社の再開発は、見事に成功しました。この時に阪急夙川駅も開設されました。この時、大神中央土地株式会社が開発分譲にあたってつけた6つの町の名前はいずれも古典の深い教養をしのばせる優雅な名前でしたが、その発想の基になったのが片鉾池でした。
空を移す片鉾池と周囲を囲むうっそうとした松林は、まるで謡曲にもなった伝説「天の羽衣」の風景の様だと羽衣町の名が生まれました。羽衣町の隣の霞町もこの伝説にちなんだ町名です。
謡曲「羽衣」の中には、春霞として登場します。
春霞 たなびにけり久方の・・・
羽衣を返してもらった天女が、その代わりに舞を見せるというものです。霞は更に比喩的な含みを持っていたかも知れません。
「霞の洞」といえば「上皇の御所」立派な御殿がある街をイメージして霞町と名付けられたのでしょうか。昭和建築として名高い夙川カトリック教会があります。昭和7年に完成した当初から、日本屈指の美しさと を誇っています。
まとめ
霞町、宅地開発を行った会社が「羽衣」にちなむ「春霞」から町名とし、上皇の御所「霞の洞」からも連想か。
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