西宮市甲風園で不動産売却・購入をお考えの方は、株式会社Fineblue
2021/09/30
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甲風園 【名前の由来】
阪急西宮北口駅の北西、東西を阪急今津線と津門川に挟まれ、北は、国道171号線という細長い街です。特急が停車する阪急西宮北口駅、交通の便利さは、西宮随一とも言える地域です。大正9年、阪急神戸線の開通と西宮北口駅の開設は、甲風園が住宅地として発展を始めるキッカケとなりました。翌大正10年には、宝塚までの西宝線(現今津線)、そして、大正15年には、今津駅まで伸びて、現今津線が完成し、西宮北口駅は、阪神間中央部で東西と南北を結ぶ重要拠点となったのです。
当時の甲風園は、まだ瓦木村の一部で旧字でいうと、十ノ坪、大苗代、中ノ坪、西犬飼、東犬飼、稗田、石分町と呼ばれていました。中ノ坪、十ノ坪といえば、その地名の起源は、奈良時代以前の条里制、近い水源を利用し、早くからこの土地で耕作していた人のあった事を感じさせます。奈良時代の条里制では条と理という土地区画線で区切られ、それぞれの区画は更に縦横6等分されてふられていました。十ノ坪などは、土地の所在地を〇条〇理〇坪などと表記していた名残ですし、おそらく中ノ坪も漢字の十五を中と読み誤った結果では、ないでしょうか。しかし、この2つの字名以外からは、やはりここの武庫川の氾濫に悩み中世、近世にようやく開拓された土地もあったらしい事が覗えます。稗しか出来ない様な荒れた土地と考えられる稗田、中世や近世は、開発された田に多い開発年を付けたと思われる犬飼(戌年に開発された)苗代が作られたらしい大苗代、隣には旧字、西久保があって、窪地や湿地だったことを思わせます。多く続いた田園風景でしたが今津線が開通して間もない昭和5年、日本住宅株式会社がこの地の宅地開発に乗り出しました。次いで阪急電車がそれを継承、発展させて直営事業で甲風園住宅地として、昭和6年に販売しました。当時の阪急電車で手腕を発揮していたのは、小林一三でした。鉄道の多角経営を目指し乗客誘致作戦として、沿線の開発にも力を入れていました。土地住宅経営の推進、観光拠点の開発、宝塚少女歌劇の創始、百貨店経営、西宮球場建設、職業野球団結成など、郊外田園住宅もその一つです。甲風園という地名は、甲山から吹く風をイメージしたのでしょうか。また、周囲には高級住宅地に変貌しつつあった甲陽園、苦楽園、都会生活者の憧れの田園住宅街、香櫨園、甲東園などがあり、その影響を受けたと考えられます。遊園地、公園、果樹園など園という漢字の持つ豊かなイメージがそのまま町名に活かされました。
販売時の開発総面積8.2ヘクタールあまりというのは、当時の近代的住宅街としては、屈指の広さ、しかも、交通の便利さでは、これ以上ないという地の利を得て、さらに発展、周囲に拡大しました。地元の方の話では、昭和40年代には、石垣があり、1区画が大きい屋敷が並び、必ずその先には、門構えがあり、たたきがあって、庭があって、玄関があり、その間を楽しまれていた。そういういったお家がズラッと並んでいた。また、甲風園には、松が多く、今でもあちこちで見かける事が出来ます。町を心を和ませます。
駅に近い1丁目や2丁目の一部には昭和30年代以降、従来の商店に加え、金融機関や学習塾、多数の飲食店が立ち並ぶ様になりました。津門川で鯉を飼い、市民の憩いの場を提供している。市内屈指の商業地域に発展した甲風園、昼間は主婦達で賑わった街角に、夜は大人の街としての灯りがともります。
まとめ
甲風園とは、甲山から吹く風+園(郊外田園住宅のイメージ)で名付けられた。
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