西宮市今津真砂町で不動産売却・購入をお考えの方は、株式会社Fineblue
2021/05/17
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今津真砂町 【名前の由来】
酒造の伝統が今も酒造業者の努力によって受け継がれている今津の街。その先人達の足跡が今津港のほとりに残されています。白砂青松の美しいこの海岸にお酒の積み出しに便利な港を出現させたのは、酒造家の一人、米屋伊兵衛(こめやいへい)でした。寛政五年(1793年)に造られました。今津のシンボルとも言える今津燈台は、海難から船荷を守る為にこの燈台を建てたのも酒造家の長部家―五代目 長兵衛により建設、六代目 文次郎により再建されました。1810年に建設された当初は、油で火を灯し、油紙の障子がはめられていたといいます。この木造の燈台は、今も海上保安庁公認の航路標識として現役で、ヨットやレジャーボートの案内役を務めています。今津の津という文字は、港、船の停泊するところを表しています。今津の歴史とも港は、深く関わっていました。古代、入江になっていた西宮辺りは、大和朝廷の重要な港で難波に近い湊に対して むこうの港=武庫水門(むこみなと)と呼ばれていました。そして武庫水門周辺に港の出入口という意味の津門(つと)という言葉がそのまま地名として使われました。古くからの津が河川の堆積で埋まって平野になってしまった後、新しく出来た津が新しい津(港)=今津、泉の人が開発したと言われている。江戸時代、今津の集落は、中国街道沿いの今津と浜側に生まれた今津浜方の2つの村がありました。かつての今津は、大部分が海岸砂に覆われていました。また、武庫川、東川、六湛寺川、久寿川、津門川、新川が氾濫の度に川砂を置き去り、長い間、農地には適さない荒れ地でした。農地に不自由した今津でしたが、人々は生業に事欠くことは、ありませんでした。まず、漁業です。目の前に広がる海は、好漁場として有名でなかでも鯛と並んで有名だったのが白魚(しろうお)で、江戸っ子が愛好、珍重した魚で今津の白魚は、江戸時代のグルメ本にも紹介されていました。また、イワシ漁が盛んでイワシから作った肥料の干鰯が今津のほか武庫川流域で盛んだった綿や菜種の栽培に用いられました。そして、酒造りは、海に面する地の利を活かして、これらの産物を諸国に輸送する廻船業も盛んでした。今津で酒造が始まったのは1700年以降といいますが、その後、100年あまりで室町時代に創業した西宮に迫る成長をみせました。最大の消費地、江戸へ上方の酒を積み出す様になったのは、享保の頃ですが、廻船業者たちは、ここでも力を発揮し、原料米や製品を大量かつ安価で運んで酒造業の成長を支えました。津門村と合併した今津村は、その後も発展し、新しく生まれた今津村は、大正10年町政を布きました。大正11年には、阪急電鉄の今津火力発電所が造られました。自社の鉄道ばかりでなく、この電力は、地域にも供給されていました。今津燈台の対岸にはたたずむ石碑は、幕末期、欧米列強が開国と貿易を求めて日本に迫った時に大阪湾の重要な港として川崎、和田岬、西宮などと共に今津にも西洋式の砲台が設置されました。法大の石材の一つが石碑となっています。
今津真砂町は、今津港を挟んだ対岸の一帯で古くから白砂青松の続く美しい海岸があったことから、新たに名付けられました。
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